Oct 21 2008

極楽塾

11月から始まります

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Oct 19 2008

ユートピア通信 №14 「2001年夢宙の旅」

 2000年の暮れには、ミラノに滞在していました。その日の夜に、ムーティが指揮するコンサートが開かれるという情報を聞いて慌ててスカラ座の前にたむろしているダフ屋からチケットを入手しました。旅の手薄なファッションからそれでも一番だと思われるものをまとってスカラ座に駆けつけると、開演前のロビーは案の定着飾った紳士淑女が波打つように集まっています。少々気後れはするものの、案内された席は3階の1番という部屋で真横からステージが眺められる素晴らしいボックスです。思わずぼられたかなと思ったダフ屋に感謝したものでした。開演ぎりぎりにやって来た同室の品のいい二人はミラノ工科大学の教授夫妻で、ムーティが指揮台に立ってタクトを振り出した瞬間に教授は居眠りを始めます。オラトリオを従えたミサ曲が主体のコンサートでしたから、私も天にも昇る心地でしたが、ムーティのミサ曲で居眠りをする教授の贅沢さには生まれながらの貴族に違いないという思いを私に抱かせるものでした。
  正面のボックスに目を遣ると、イタリアの若きベンチャー起業家を想起させるりゅうとした3人の紳士とオペラ・カルメンのまさにそのカルメンがいるのです。カルメンはコンサートにはあまり興味がないようでしきりに露な両肩にまとっている薄絹のショールの形を気にしているのです。手摺りから少し頭を突き出してぐるっと見渡すと何百というボックスが馬蹄形にステージを囲んでいるのですが、ムーティのミサ曲がそれを宇宙を取り巻いている蜂の巣としてイメージさせるのです。この蜂の巣の中の恋人や夫婦や家族や起業家たちは何を想い、どんな人生を築いてきたのでしょうか。そしてこれからどこに行こうとしているのでしょうか。1000年の終わりの2時間を私は不思議な夢心地で過ごしたのでした。それにしても、あの明治の書生と同じようなヘアスタイルのムーティの頭をほぼ真上から眺めて敬虔なコンサートと蜂の巣の中のそれぞれの人間ドラマを楽しめたというのは、千年紀末を飾るにふさわしい体験のように思われました。
  明日から雪になるというミラノの街をタクシーに乗ってホテルに帰って来たのですが、冷たい部屋に入っても心は何かほかほかしていました。
  2001年は日本に戻っていましたが、世界や日本がどうなるのかはっきりしません。結構、厳しい時代が続くのかも知れません。しかし、だからこそ志や夢を絶やさずに、私が最近ポストベンチャーのテーマとして考えている“ミッションビジネス(志業)”を今年も多摩大学のゼミ生たちと研究開発していきたいと考えています。資本主義は21世紀、志本主義に進化することを期待しているのです。それもまた『2001年夢宙の旅』のエスキースのひとつです。
  これからも多くのことをご指導いただきたく思います。そしてどうぞこの新しい千年紀をそれぞれの想いでデザインしていただけますように。
  千年紀の始まり、宇宙創成のビックバーンの残響音に耳を傾けながら


Oct 19 2008

ユートピア通信 №13 「変身」ーメタモルフォーシスー

 「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」有名なカフカの小説『変身』の出だしの一節である。最近読み直して、ふとこの一節がなにかを暗示しているのではないかと考えた。そこで思い当たったのが現在の日本の姿である。
  「ある朝、日本が胸騒ぎのする夢からさめると、一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。」ということになるが、実は日本が変わったのではなく回りの状況が急速に変化して相対的にばかでかい毒虫になってしまったという構図ではないだろうか。
  萩原朔太郎の小説『猫町』は、主人公の作家が散歩で入り込んだ馴染みの町の人々が一人残らず猫に変わってしまったという展開である。モルヒネ中毒の作家の幻覚がそんな現象を生み出すのであるが、町の人間が猫に変わったからよかったものの、もし人間よりもより高等な生物に変化していたら物語はどうなっただろうか。それは、毒虫になってしまったザムザとザムザの存在を理解しない家族や下宿人の関係である。ザムザは毒虫になりたくてなったのではない。目が覚めるとどういう訳か毒虫になっていたザムザの存在そのものの不条理をカフ カは表現したかったのだ。
  立花隆が教授を勤めていた東京大学の最終講義で、天才物理学者・ホーキングのような難病患者に遺伝子治療をする事は認められているが、その手法を健常者である人間に行うことによって、高度な文明社会の到来の可能性について述べていた。文明を高度化するためには人間そのものもスーパーマンならぬサイバーマンに変化させる可能性も研究していく必要がある、と立花隆のコンテクストの意味を感じたが、私にはなにかそら恐ろしい気もする。それは、文明が自分とは関係なく進化することで、誰でもがある日突然に毒虫になってしまうザムザ現象がいつでも起こり得るからであり、事実すでに起こっているのではないか。
  ザムザは突然に毒虫に変身してしまったことで世の不条理を体験するのであるが、変化しないことの権利を誰も保障することができない社会、すなわち変化しないことが変身を余儀なくさせるという社会の方が不条理なのだと私は思う。
  毒虫の死、すなわちザムザの死はグレゴール家族を肩の重い荷から解放させて、日和の良い一日、久しぶりにピクニックに向かわせる。小説『変身』は、そんなハッピーエンドとも見まがう結末になるのであるが、グローバル・スタンダードに乗り遅れそうな日本は死を迎えることなしに世界を幸せにすることができるのであろうか。
  人間は生から死への不可避なメタモルフォーゼを抱えている。絶えず変身していくことは不条理であっても宿命である。であるとしたら、メラモルフォーゼのサーファーとして生きていくこともまたむべなるかな、である。
  ところで、最近住まいを変えました。少しばかり環境を変えて変身を演出してみようといったたぐいの試みです。お手元の住所録を変身させて下さい。
まさに変化の季節、どうぞご自愛くださいますように。


Oct 19 2008

ユートピア通信 №12 「利再来」

 “利再来”などどいう漢字は辞書にはない。創語である。“りさいくる”と読む。
この春に、“スペース循環産業(倉庫・工場のリユース、サブリース事業)”をコンセプトとしたベンチャー企業・幸洋コーポレーション(水上洋一社長)が主催して「リサイクル・ビジネス」のセミナーが開かれた。私もコーディネーターとして招かれたのであるが、不用品を必要品に変えてしまう手品師のようなリサイクル・ベンチャーの日本ホーエイ(株)の服部正男社長の話などを聞いていて、ふと“リサイクル”とは“利再来”ではないかと思い当たったのである。
  21世紀の地球社会の命題は、よくいわれているように塵芥を限りなくゼロにしてしまう「ゼロ・エミッション」の社会づくりであり、「サステナブル・コミュニティ」と呼ばれている持続可能な地域社会の創造である。それらの理想とする社会を可能にする思想と実践の基底にあるものがリサイクルという環境循環型社会の発想である。
社会の循環を支えているのは、“物”や“自然”だけではない。茨城の納豆産業の風雲児と目されたクメ・クオリティ・プロダクツ(株)の石塚昇一郎社長は、納豆ならぬ“マイクロ・ビジネスの発酵センター”を理念として、東京・銀座のど真ん中にIZM(インテレクチャル・ゾーン・オブ・マイノリティ)というビジネス・インキュベーターをスタートさせた。実は、私もこのニューヨークのシリコンアレーを超える21世紀戦略プロジェクトにコンセプターとして参加したのであるが、今年の初めから立ち上げた事業は驚くほどの反響を得た。IZMとは、簡単にいえば21世紀のビジネス・ベンチャラーたちのスマート・オフィスであるが、その拠点を求めてやってくる人々の中に企業をリタイアしたり、途中でやめたりしたシニア人間が多くいるのである。彼らのIZMへの期待は、それまで培ってきた“知恵”や“経験”がリユースされることなのだという。すなわち、私にはそれらが知恵と経験のリサイクル事業というふうに考えられるのだ。IZMはその意味で知恵(インテレクト)と情報のリサイクル・センターであるといえるだろう。
  島根の津和野から裸一貫で上京し、“ヒューマンテーネント(人間的もてなし)”をテーマにしてプレジャー産業を築いてきた(株)アオキの青木勤社長のモットーは“心身のリサイクル”なのだという。アオキの主要事業はパチンコホール経営であるが、そのホールは玉の還流だけでなく真に心身のカタルシス(浄化)センターを目指しているのである。
  “利は結果である”というのも青木社長の哲学であるらしいが、まさにそれが“利再来”なのである。
  こうやって宇宙船地球号はリサイクルの世紀に、いや私はリサイクルそれ自体が新しい価値や情報を生み出すクリエイティブ・サイクルの永遠運動に突入する時代が来たと考える。それをリサイクルから“クリサイクル(クリエイティブ・サイクル)”の時代、すなわち「久利再来」と呼びたいのであるが、どうであろうか。


Oct 19 2008

ユートピア通信 №11 「司馬遼太郎の“道”」

  日本道路建設業協会という所から原稿依頼があった。機関誌に“道”に関するエッセイを書いてもらいたいというのだ。協会は当然のことながらハードな道路を扱っている法人であろう。しかし、私はその話を聞いたときに、ふと<司馬遼太郎の道>という言葉を思い浮かべた。司馬遼太郎とは、終生“道”をテーマにしてきた作家ではなかったか、と思いついたのである。存命する限り書き続けたであろう『街道をゆく』は、紀行文というよりは地球上の道に集約した人類文化を描こうとした「道の文化史」ではないだろうか。このライフワーク以外でも、明らかに“道”がキー概念になっている作品が多い。
  例えば代表作の1つである『坂の上の雲』という小説がある。周知の通り、日露戦争で世界中が負けて当然だと思いこんでいた日本海戦を奇跡的勝利に導いた秋山好古・真之兄弟を中軸に描いた物語である。司馬遼太郎はそれまでの歴史家の明治のイメージを書き換えてしまうほどにこの時代に思い入れていた。列強に迫られていた日本は必死になってそれらの国々に肩を並べるために邁進した。伊藤博文や山県有朋らが懸命に不相応といってもいい志を持って建国に突き進んだのだ。その姿はけなげでもあり、また悲壮感に満ちたものであったろう。その意志をまっしぐらに進んでいけたのは、坂の向こうに明るく輝く希望のような雲が浮かんでいたからである。虹色の雲(希望)を望むことができる幸福な楽天家の時代、それが明治だったと司馬遼太郎はこの本を書くに当たって述べている。『坂の上の雲』とは、その雲の下にしっかりした坂(道)を描くことのできる時代であり、そのたどるべき“道”の小説でもあったのだ、と私は思う。もう1つの代表作『龍馬がゆく』もまた、その革命児・龍馬が疾駆した若きそして短き日々の“道程”の小説である。
  私が好きな作品は、1991ー92年に書かれた『草原の記』である。1973年にモンゴルを訪れた司馬遼太郎の、たまたま通訳をしたモンゴル女性を巡る数奇に満ちた物語である。そのツェベクマさんはシベリアで生まれ、日本の統治下にあった満州で育ち、毛沢東の中国を生き抜き、最後に故郷のモンゴルに帰って気丈に生きた女性である。その半生に、大陸生まれの私には不思議な共感があって、読んだ後にあふれ出る涙を止めることができなかった。チンギス・ハーンが騎乗して駆け抜けたモンゴルの草原には、道など付いていないであろうが、その草原にモンゴル女性のツェベクマさんは、自分で苦難と希望に錯綜した人生という道を縦横に描いたのであろう。私にはやはりこの物語にもしっかりと、見える道が あった。
  今、私は日本という国が行き暮れているように思える。その思いは司馬遼太郎にも確かに存在した。『韃靼疾風録』を最後に、小説を止め『街道をゆく』を進める傍ら、評論活動に明け暮れた。モチーフは幾つも持っていながら小説表現しなかった明治以降の日本と21世紀に向かうべき日本の道を、直裁、真摯に探ろうとしていたのではないだろうか。その日本の向かうべき“道”のために、「まるで青年のように司馬さんは思いつめていた」と奥さんの福田みどりさんは語っている。偉大な作家を失ってしまった私たちは、今再び叡智を持って日本と己の“道”について探求しなければならない時代に直面している、と私は書棚の司馬遼太郎の著作を眺めながら思うのである。


Oct 19 2008

ユートピア通信 №10 中村秀一郎先生のこと

「おかしいな」と私はその時思っていました。大田区の産業ビジョン委員会があった時のことです。めったに集まりに遅れることのない中村先生が30分たっても現れないのです。しかたなく私が委員長代理で会を進めている時分、中村先生は脳梗塞に襲われて日赤病院にかつぎ込まれていたのでした。
 人生とは人との出会いの積み重ねだと私は思っています。これまでの半生を考えてみても、自分一人でやってきたことはごくわずかな部分に過ぎないことに気づきます。多くは人に教えられ、諭され、導かれて人生を営んでこられたのです。従っていかなる先達や、友人や、後輩たちに出会えるかで、人生の彩りや高みの在り方が違ってくるはずです。そして長い人生の中で大勢の人々に出会えているはずですが、住所録や、賀状を眺めてみても、実は私たちはほんの一握りの人にしか知遇を得ていないのだと思い知らされるのです。そういった人々の中でも中村先生は私には本当に大切な先達であり先輩であったのです。人生の中で数少ない“師匠”と言える人でした。中村先生にとっては、大勢いらっしゃる弟子内で、私などはまさに勝手に自分でそう思っている不肖の弟子に過ぎないのですが、少なくとも私は「中村先生の弟子です」と言えることを誇りに思っていたのです。
 30代の始め、私は中村先生に初めて呼ばれた<神奈川県産業政策審議会>で、座長である先生に「望月君、あなたの考えを述べてください」と指名された時、どんなに緊張し、また嬉しく思ったことでしょうか。それ以後、様々な委員会や研究会に呼ばれ、私には先生の前で考え、喋ることがどんな教育をも上回る訓練の場だったのです。こうやって育てられた人間は、無論私だけでなく、同僚の星野克美や関満博など数多くいるのです。
 野田一夫先生と中村先生が比類なき絶妙なペアシステムで創りあげた多摩大学に私も招かれました。これは一つのベンチャーな作品だと思います。それだけにその作品を磨いて行かなければならない私たちに、ずっしりした重さが残ります。そしてこれは野田先生や中村先生が私たち世代に課す仕事でもありましょう。
 3月の半ば、先生がリハビリを受けている伊豆の月ヶ瀬病院を見舞いました。病室に入っていくと先生はすぐに気づかれ、にこにこと例の誰でも楽しくさせてしまう“秀スマイル”で迎えてくれました。リハビリは相当にきつく、70才を過ぎられた先生には骨身に応えるようでした。動かなくなってあまり使わない右手がやせ細っています。学校のこと、委員会のことなどしばらく話して、私は先生があまりお疲れにならないように病室の窓辺に立ちました。外には田園が広がり、明るい春のエネルギーがみなぎっていました。
 そのうちに、ベッドに横になられた中村先生が深い大きな溜め息をつかれたのが感じられました。遅咲きの白梅でしょうか、その溜め息にうながされるように白い花びらがはらはらと散って、病棟の横を流れる川面を流れていきました。私はこの偉大な先達の成し遂げてきたようなことを、果たして伝承していくことができるのかふっと考えていました。
 ふりかえるとそこにはいつも秀スマイルがありました。「早くお元気になってくださいね」もう病室に入って10回も繰り返した言葉を私はまた言ってしまったのです。


Oct 18 2008

ユートピア通信 №5 「親友、小野貴邦追悼」

 ふらりと出かけた散歩の途中、花屋さんの店の片すみでしおれたあじさいの一鉢を買った。
 店の小母さんが「今年はもうダメですが、来年また咲きますから」といって定価三千円を千円にまけてくれた。
 来年にまた、という期待感、未来感がその一鉢にあった。
 つい先頃私は大切な友人の一人を亡くした。小野貴邦である。小野もまた毎年毎年次の年にもう一回り大きく咲くために生きていた。私にはそう思える。
 “主婦産業は1兆円産業だ”というフレーズが、次に会った時には10兆円になっていた。そうやって彼は自分のビジネスの夢を際限なく膨張させ、その内実を創出するためにアルミ製のケースを抱えて走り回っていた。それは別に彼が誇大妄想家であったからではない。 何か全く新しい産業社会の到来を小野がイメージしていたからである。彼 と私の共通の師・中村秀一郎先生の「知のビッグバン」を祝う会のメインテーマを「産業創世期神話」と二人して決めた。この言葉・概念を小野は えらく気に入っていたようだ。いたる所で使っていた。産業創世期のための神話づくりを彼は一種使命のようにとらえていたに違いない。
 ーおまえは常に思想家たれ、オレはその実践者たらんとすー 私に向かって、彼はいつでもこういっていた。この小野が投げかけた大きな命題に対して、私はただ立ちすくむだけだ。なぜなら実践者の軌跡にのみあらたな思想が見い出されるからである。
今、私の書斎のベランダで、あじさいが活き活きと蘇っている。私がたっぷりと水を与えた結果なのであるが、小野は私たちに、これまでたっぷりと知と愛の水をかけ続けてくれていたのではないか。小野が逝ってしまった現在、生命(いのち)の水を今後は私たちが時代に与える番だ、とこのところ私は考えているのだ。


Oct 18 2008

ユートピア通信 №7

 お元気でお過ごしですか。
 早いもので多摩大学はこの4月で4年生が生まれます。来年は最初の卒業生が出ます。<21世紀を拓く>というコンセプトの大学創設に参加した時には、私も新たな“知の枠組”の創造というイメージを持って胸を高鳴らせたものです。
 21世紀の日本は、経済や技術で世界に貢献する時代から、知恵や文化でサポートする時代になると私は思っています。その意味で、大学は 知的生産の現場として装置型産業から装知型産業に徹底することが必要だと考えたのです。社会的に見れば、この考えは当たり前なのですが、10年以上の講師生活で、大学とは必ずしも知の本質を貫いた組織では ないことを知りました。
 大学案内のパンフレットに、私はあと10年程は教鞭を執る中で、1人のウォルト・ディズニーを、1人の小林一三を育てたいと宣言しました。経営情報学科というベースメントから、これまでの通念を打ち破った強靭な知性とエネルギーを持った人間(経営者)が生まれて欲しいと 願ったからです。基礎ゼミと呼ばれる望月ゼミでは生徒に会社を創らせ ました。そしてそこに私が仕事を発注するのです。従って授業という形 態はなく教壇には常にゼミ生が立っています。あるプロジェクトやビジネスに対して彼らが企画書や調査報告書をまとめ、私や他のゼミ生にプレゼンテーションを行い、その中味やプレゼン力で私はゼミ企業の明確 な優劣を決めるのです。
 しかしこれらはビジネススクールで行っているようなゲームではありません。私の狙いは“組織で物を考える”“創造的な発想とは何か”“情報の源泉はどこに在るか”といった本質を彼らに体得してもらう事 なのです。おかげで私が期待した以上の知的でパワフルな青年たちが生まれています。喜しい限りです。
 私はこれまで大学教育という環境に半分は身を置きながら、しかし一方でかなり実践的な仕事をプロデュースしてきました。それらには常に創造的なアクティビティが要求されます。
 しかし日本の、いや次の世界の担い手である若者たちに何かを伝承する作業こそが最も創造的なものだと、多摩大学以後の私は考えているのです。
 どうぞ時節柄、ご自愛ください。


Oct 18 2008

ユートピア通信 №9 「レコンキスタ」

 この冬もまた私は暮れから正月にかけてイベリア半島を巡っていました。何年か前から日本の慌ただしい時節を外国で過ごすことを半ば自分の習いにしようと思っていたこともありますし、また大学勤めのオフの時に少しずつ美の現場を歩いてみようとこれもだいぶ以前から考えていたのです。スペインとポルトガルはすでに何回かは訪れているのですが特に今回はゆっくりとこの地の美の始源から中世の宗教美術、近世・近代の圧倒的な美 のシーンに遭遇したいという期待を込めていたのです。
  もう一つ私の想いのどこかに“ヘミングウエイのスペイン”といった感覚がありました。「日はまた昇る」を始めとして彼の長編や短編のモチーフの多くにスペインの街や酒場や風景のことが出てきますが、私にはたまらなくそういった情景が魅力的に思えるのです。旅の間中私は鞄の底にヘミングウエイの小説を入れて、思い出すたびにそれを取り出して読み耽っていたのです。
  クリスマスの晩はサラマンカの新旧のカテドラルがライトアップして真っ暗な夜空に忽然と現れている姿をパラドールの一室から地酒のワインを片手に眺めていたものです。また元旦の明け方は、グラナダの街をまだ昨夜の馬鹿騒ぎの余韻を残したタキシードとドレスの若者の間を、ゆっくりとアルハンブラ宮殿に向かって登って行ったのです。人気のないカサ・レアルのアラヤネスのパティオに入ると池に落ちる噴水と私の靴音だけがして、水面に写った自分の影さえも凍ってしまいそうにシンとしています。
  そんな街々を歩きながら、レコンキスタと呼ばれるキリスト教徒による国土回復運動がもたらした美と美の激しい衝突のことを考えていたのです。それはむろん今世界的なテーマである「文明と文明の衝突」に起因していることはいうまでもありません。結果的にキリスト教徒に征服されたイスラムの美と文明に、私はむしろ「唯ひとり、神だけが勝利者である」とする純粋な精神を感じたのですが、その純粋さ故に滅びゆく運命にあったことをも哀惜の情を感じずにはいられませんでした。自裁してしまったヘミングウエイがフランコの独裁に反対しあれだけスペインを愛した想いのなかには一体何があったというのでしょうか。やはり美への完璧なまでの憧 憬といったものが、アメリカ人である彼をしても鍵になる概念だと私には 思えるのです。
  私にとってはなかなか出来ない贅沢な旅でしたが、<極めた美のなかに滅びが宿る>という教訓は大切なものでした。年をあらためた東京の雑踏のなかに身を置いて、今関係している東京・大田区のハイテクを軸にした産業政策を現実に考えても、これもまた“産業レコンキスタ”かななどどいう感慨が湧いて、旅の体験には深くて貴重な啓示が隠されていたようです。