夕張ルネッサンス
何の目的も無しに、ぶらりと旅に出るのは愉しい。内田百聞のように、特急列車に乗ることが旅の目的で、行き先は関係ないという気まま旅もある。しかし、実際にはぶらり旅というのはかなり上級の旅人のやることで、私のような下級者にはそれが出来ない。昨年も何回も旅に出たが、全てがテーマを持った旅だった。無論、目的のある旅にも愉しさがあるが、昨年のものは研究調査という性格で、ある種の厳しさが伴った。私の研究テーマはここ数年、地域経営・地域再生というもので、夕張の経営破綻などがターゲットだ。
秋の終わりに、夕張の町を訪れた。紅葉が夕張では観光の売りになっているが、その季節が終わった風景を、連絡の悪い鉄道の列車の窓から眺めていると一段と侘しさが募る。これがぶらり旅だったら、別の思いが胸を過ぎった違いない。アイヌ語で“温泉の出るところ”という名前らしいホテルに荷を置いて、早速「兵どもが夢の後」の遊園地やロボット館、炭鉱博物館やキネマ館など、かつての辣腕市長・中田鉄次氏が開発した観光施設を視察した。これらの経営が窮地に追い込まれ、今は加森観光という民間企業が代わりに経営している。開発された施設の幾つかが閉鎖され、残された映画村などがオープンしているが、訪れる人影はほとんど無い。観光経営にはまったくの素人だった行政人が補助金を頼りにしゃにむに経営した残滓に胸ふさがれる思いがした。翌日、アポを取っていた市役所の観光課の担当者や、民間組織の観光協会や地元新聞の記者などを訪ねた。観光課には、注目される「産業観光」の可能性などについて訊ねたが、後始末がせいぜいで新しいプロジェクトには個人的な関心でしか関われないと嘆いていた。彼らは、実のところ勝手な研究テーマで訪れる私たちや助っ人を自称する人々に手を焼いているのではあるまいか。そんな思いもするヒヤリングだった。
しかし、私にはある構想がある。破綻した夕張と同じように経営不振にあった常磐炭鉱のいわき市と、宇部興産という企業が存在する宇部市の三都地域経営比較である。いわき市は映画「フラガール」で一躍注目され、宇部興産は最高の事業利益を挙げている。どの町も、観光を柱にしているが、地域の栄枯盛衰の別れ目がどこにあるのか。この地域経営の成功の秘訣を極める旅は、厳しくもまた愉しい体験として、今年も続くであろう。
構想博物館
遠く、潮騒の聞こえる土地で暮らしてみたいものだという思いをずっと持ち続けてきた。それは、私が海沿いの小さな町で育ってきたこともあったが、ルソーの“自然に帰れ”という思想への共鳴に近いものも背景にある。東京に住まうことになって、その自然に帰るという生活とはやむなく離れたものになっていたが、思いは消えなかった。何年か前に、鎌倉の極楽寺を訪ねた折、偶然に小高い丘の斜面の、繁みに隠れるような空地と出会った。その場所から直接、海を望むことは出来なかったが、二階ほどの高みからは可能のようだった。私の耳はまるでコクトーになって、海鳴りの響きを感じていた。思い切って身辺を整理し、その土地を手に入れることが叶った。今年、そこに描いた家が出来上がる。
もう一つの思いが、私の頭の中にあった。『構想博物館』という構想である。人類がこれまで考え、成し遂げてきた様々な“構想”がある。これまでの歴史を創り上げてきたものも、これからの人類の幸せな未来を生み出すものもその構想群に懸かっている。私自身も、国や自治体や企業やNPOなどの組織と一体になって、たくさんの構想を考え、実践してきたという多少の自負がある。構想に関する書籍や膨大な資料を大学の研究室や自身の研究所など数ヶ所に分散して持っている。これらも一つにまとめて、構想研究と実践の拠点を創ることも、私に残された命題だと思っている。その、極楽寺の環境をそのまま“極楽塾”として、理想の『構想博物館』にしたいという大それた思念が今年から実現に移される。
江ノ電の鄙びた駅舎から、極楽塾まで7,8分であるが、途中からうねった細道になって車は入らない。自動車は持たない、携帯電話に携帯されない、コンビニ・ファーストフードには入らない、これらは私のライフウェア(生活作法)であるが、このエココンシャスな生活でも極楽塾では快適なものになろう。地球と地域に余分な負荷を与えない新しいライフステージへの挑戦、すなわち(セカンドライフならぬ)ネクストライフへの挑戦もこれからの大切な実行課題だ。
しばらくは、東京と極楽寺の2重螺旋型生活となる予定だ。次なる人生(ネクストライフ)のカタルシスに向かって、今年、ゆっくりと緞帳が上がっていく。
ユートピア通信 №14 「2001年夢宙の旅」
2000年の暮れには、ミラノに滞在していました。その日の夜に、ムーティが指揮するコンサートが開かれるという情報を聞いて慌ててスカラ座の前にたむろしているダフ屋からチケットを入手しました。旅の手薄なファッションからそれでも一番だと思われるものをまとってスカラ座に駆けつけると、開演前のロビーは案の定着飾った紳士淑女が波打つように集まっています。少々気後れはするものの、案内された席は3階の1番という部屋で真横からステージが眺められる素晴らしいボックスです。思わずぼられたかなと思ったダフ屋に感謝したものでした。開演ぎりぎりにやって来た同室の品のいい二人はミラノ工科大学の教授夫妻で、ムーティが指揮台に立ってタクトを振り出した瞬間に教授は居眠りを始めます。オラトリオを従えたミサ曲が主体のコンサートでしたから、私も天にも昇る心地でしたが、ムーティのミサ曲で居眠りをする教授の贅沢さには生まれながらの貴族に違いないという思いを私に抱かせるものでした。
正面のボックスに目を遣ると、イタリアの若きベンチャー起業家を想起させるりゅうとした3人の紳士とオペラ・カルメンのまさにそのカルメンがいるのです。カルメンはコンサートにはあまり興味がないようでしきりに露な両肩にまとっている薄絹のショールの形を気にしているのです。手摺りから少し頭を突き出してぐるっと見渡すと何百というボックスが馬蹄形にステージを囲んでいるのですが、ムーティのミサ曲がそれを宇宙を取り巻いている蜂の巣としてイメージさせるのです。この蜂の巣の中の恋人や夫婦や家族や起業家たちは何を想い、どんな人生を築いてきたのでしょうか。そしてこれからどこに行こうとしているのでしょうか。1000年の終わりの2時間を私は不思議な夢心地で過ごしたのでした。それにしても、あの明治の書生と同じようなヘアスタイルのムーティの頭をほぼ真上から眺めて敬虔なコンサートと蜂の巣の中のそれぞれの人間ドラマを楽しめたというのは、千年紀末を飾るにふさわしい体験のように思われました。
明日から雪になるというミラノの街をタクシーに乗ってホテルに帰って来たのですが、冷たい部屋に入っても心は何かほかほかしていました。
2001年は日本に戻っていましたが、世界や日本がどうなるのかはっきりしません。結構、厳しい時代が続くのかも知れません。しかし、だからこそ志や夢を絶やさずに、私が最近ポストベンチャーのテーマとして考えている“ミッションビジネス(志業)”を今年も多摩大学のゼミ生たちと研究開発していきたいと考えています。資本主義は21世紀、志本主義に進化することを期待しているのです。それもまた『2001年夢宙の旅』のエスキースのひとつです。
これからも多くのことをご指導いただきたく思います。そしてどうぞこの新しい千年紀をそれぞれの想いでデザインしていただけますように。
千年紀の始まり、宇宙創成のビックバーンの残響音に耳を傾けながら
ユートピア通信 №13 「変身」ーメタモルフォーシスー
「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」有名なカフカの小説『変身』の出だしの一節である。最近読み直して、ふとこの一節がなにかを暗示しているのではないかと考えた。そこで思い当たったのが現在の日本の姿である。
「ある朝、日本が胸騒ぎのする夢からさめると、一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。」ということになるが、実は日本が変わったのではなく回りの状況が急速に変化して相対的にばかでかい毒虫になってしまったという構図ではないだろうか。
萩原朔太郎の小説『猫町』は、主人公の作家が散歩で入り込んだ馴染みの町の人々が一人残らず猫に変わってしまったという展開である。モルヒネ中毒の作家の幻覚がそんな現象を生み出すのであるが、町の人間が猫に変わったからよかったものの、もし人間よりもより高等な生物に変化していたら物語はどうなっただろうか。それは、毒虫になってしまったザムザとザムザの存在を理解しない家族や下宿人の関係である。ザムザは毒虫になりたくてなったのではない。目が覚めるとどういう訳か毒虫になっていたザムザの存在そのものの不条理をカフ カは表現したかったのだ。
立花隆が教授を勤めていた東京大学の最終講義で、天才物理学者・ホーキングのような難病患者に遺伝子治療をする事は認められているが、その手法を健常者である人間に行うことによって、高度な文明社会の到来の可能性について述べていた。文明を高度化するためには人間そのものもスーパーマンならぬサイバーマンに変化させる可能性も研究していく必要がある、と立花隆のコンテクストの意味を感じたが、私にはなにかそら恐ろしい気もする。それは、文明が自分とは関係なく進化することで、誰でもがある日突然に毒虫になってしまうザムザ現象がいつでも起こり得るからであり、事実すでに起こっているのではないか。
ザムザは突然に毒虫に変身してしまったことで世の不条理を体験するのであるが、変化しないことの権利を誰も保障することができない社会、すなわち変化しないことが変身を余儀なくさせるという社会の方が不条理なのだと私は思う。
毒虫の死、すなわちザムザの死はグレゴール家族を肩の重い荷から解放させて、日和の良い一日、久しぶりにピクニックに向かわせる。小説『変身』は、そんなハッピーエンドとも見まがう結末になるのであるが、グローバル・スタンダードに乗り遅れそうな日本は死を迎えることなしに世界を幸せにすることができるのであろうか。
人間は生から死への不可避なメタモルフォーゼを抱えている。絶えず変身していくことは不条理であっても宿命である。であるとしたら、メラモルフォーゼのサーファーとして生きていくこともまたむべなるかな、である。
ところで、最近住まいを変えました。少しばかり環境を変えて変身を演出してみようといったたぐいの試みです。お手元の住所録を変身させて下さい。
まさに変化の季節、どうぞご自愛くださいますように。
ユートピア通信 №12 「利再来」
“利再来”などどいう漢字は辞書にはない。創語である。“りさいくる”と読む。
この春に、“スペース循環産業(倉庫・工場のリユース、サブリース事業)”をコンセプトとしたベンチャー企業・幸洋コーポレーション(水上洋一社長)が主催して「リサイクル・ビジネス」のセミナーが開かれた。私もコーディネーターとして招かれたのであるが、不用品を必要品に変えてしまう手品師のようなリサイクル・ベンチャーの日本ホーエイ(株)の服部正男社長の話などを聞いていて、ふと“リサイクル”とは“利再来”ではないかと思い当たったのである。
21世紀の地球社会の命題は、よくいわれているように塵芥を限りなくゼロにしてしまう「ゼロ・エミッション」の社会づくりであり、「サステナブル・コミュニティ」と呼ばれている持続可能な地域社会の創造である。それらの理想とする社会を可能にする思想と実践の基底にあるものがリサイクルという環境循環型社会の発想である。
社会の循環を支えているのは、“物”や“自然”だけではない。茨城の納豆産業の風雲児と目されたクメ・クオリティ・プロダクツ(株)の石塚昇一郎社長は、納豆ならぬ“マイクロ・ビジネスの発酵センター”を理念として、東京・銀座のど真ん中にIZM(インテレクチャル・ゾーン・オブ・マイノリティ)というビジネス・インキュベーターをスタートさせた。実は、私もこのニューヨークのシリコンアレーを超える21世紀戦略プロジェクトにコンセプターとして参加したのであるが、今年の初めから立ち上げた事業は驚くほどの反響を得た。IZMとは、簡単にいえば21世紀のビジネス・ベンチャラーたちのスマート・オフィスであるが、その拠点を求めてやってくる人々の中に企業をリタイアしたり、途中でやめたりしたシニア人間が多くいるのである。彼らのIZMへの期待は、それまで培ってきた“知恵”や“経験”がリユースされることなのだという。すなわち、私にはそれらが知恵と経験のリサイクル事業というふうに考えられるのだ。IZMはその意味で知恵(インテレクト)と情報のリサイクル・センターであるといえるだろう。
島根の津和野から裸一貫で上京し、“ヒューマンテーネント(人間的もてなし)”をテーマにしてプレジャー産業を築いてきた(株)アオキの青木勤社長のモットーは“心身のリサイクル”なのだという。アオキの主要事業はパチンコホール経営であるが、そのホールは玉の還流だけでなく真に心身のカタルシス(浄化)センターを目指しているのである。
“利は結果である”というのも青木社長の哲学であるらしいが、まさにそれが“利再来”なのである。
こうやって宇宙船地球号はリサイクルの世紀に、いや私はリサイクルそれ自体が新しい価値や情報を生み出すクリエイティブ・サイクルの永遠運動に突入する時代が来たと考える。それをリサイクルから“クリサイクル(クリエイティブ・サイクル)”の時代、すなわち「久利再来」と呼びたいのであるが、どうであろうか。
ユートピア通信 №11 「司馬遼太郎の“道”」
日本道路建設業協会という所から原稿依頼があった。機関誌に“道”に関するエッセイを書いてもらいたいというのだ。協会は当然のことながらハードな道路を扱っている法人であろう。しかし、私はその話を聞いたときに、ふと<司馬遼太郎の道>という言葉を思い浮かべた。司馬遼太郎とは、終生“道”をテーマにしてきた作家ではなかったか、と思いついたのである。存命する限り書き続けたであろう『街道をゆく』は、紀行文というよりは地球上の道に集約した人類文化を描こうとした「道の文化史」ではないだろうか。このライフワーク以外でも、明らかに“道”がキー概念になっている作品が多い。
例えば代表作の1つである『坂の上の雲』という小説がある。周知の通り、日露戦争で世界中が負けて当然だと思いこんでいた日本海戦を奇跡的勝利に導いた秋山好古・真之兄弟を中軸に描いた物語である。司馬遼太郎はそれまでの歴史家の明治のイメージを書き換えてしまうほどにこの時代に思い入れていた。列強に迫られていた日本は必死になってそれらの国々に肩を並べるために邁進した。伊藤博文や山県有朋らが懸命に不相応といってもいい志を持って建国に突き進んだのだ。その姿はけなげでもあり、また悲壮感に満ちたものであったろう。その意志をまっしぐらに進んでいけたのは、坂の向こうに明るく輝く希望のような雲が浮かんでいたからである。虹色の雲(希望)を望むことができる幸福な楽天家の時代、それが明治だったと司馬遼太郎はこの本を書くに当たって述べている。『坂の上の雲』とは、その雲の下にしっかりした坂(道)を描くことのできる時代であり、そのたどるべき“道”の小説でもあったのだ、と私は思う。もう1つの代表作『龍馬がゆく』もまた、その革命児・龍馬が疾駆した若きそして短き日々の“道程”の小説である。
私が好きな作品は、1991ー92年に書かれた『草原の記』である。1973年にモンゴルを訪れた司馬遼太郎の、たまたま通訳をしたモンゴル女性を巡る数奇に満ちた物語である。そのツェベクマさんはシベリアで生まれ、日本の統治下にあった満州で育ち、毛沢東の中国を生き抜き、最後に故郷のモンゴルに帰って気丈に生きた女性である。その半生に、大陸生まれの私には不思議な共感があって、読んだ後にあふれ出る涙を止めることができなかった。チンギス・ハーンが騎乗して駆け抜けたモンゴルの草原には、道など付いていないであろうが、その草原にモンゴル女性のツェベクマさんは、自分で苦難と希望に錯綜した人生という道を縦横に描いたのであろう。私にはやはりこの物語にもしっかりと、見える道が あった。
今、私は日本という国が行き暮れているように思える。その思いは司馬遼太郎にも確かに存在した。『韃靼疾風録』を最後に、小説を止め『街道をゆく』を進める傍ら、評論活動に明け暮れた。モチーフは幾つも持っていながら小説表現しなかった明治以降の日本と21世紀に向かうべき日本の道を、直裁、真摯に探ろうとしていたのではないだろうか。その日本の向かうべき“道”のために、「まるで青年のように司馬さんは思いつめていた」と奥さんの福田みどりさんは語っている。偉大な作家を失ってしまった私たちは、今再び叡智を持って日本と己の“道”について探求しなければならない時代に直面している、と私は書棚の司馬遼太郎の著作を眺めながら思うのである。
ユートピア通信 №10 中村秀一郎先生のこと
「おかしいな」と私はその時思っていました。大田区の産業ビジョン委員会があった時のことです。めったに集まりに遅れることのない中村先生が30分たっても現れないのです。しかたなく私が委員長代理で会を進めている時分、中村先生は脳梗塞に襲われて日赤病院にかつぎ込まれていたのでした。
人生とは人との出会いの積み重ねだと私は思っています。これまでの半生を考えてみても、自分一人でやってきたことはごくわずかな部分に過ぎないことに気づきます。多くは人に教えられ、諭され、導かれて人生を営んでこられたのです。従っていかなる先達や、友人や、後輩たちに出会えるかで、人生の彩りや高みの在り方が違ってくるはずです。そして長い人生の中で大勢の人々に出会えているはずですが、住所録や、賀状を眺めてみても、実は私たちはほんの一握りの人にしか知遇を得ていないのだと思い知らされるのです。そういった人々の中でも中村先生は私には本当に大切な先達であり先輩であったのです。人生の中で数少ない“師匠”と言える人でした。中村先生にとっては、大勢いらっしゃる弟子内で、私などはまさに勝手に自分でそう思っている不肖の弟子に過ぎないのですが、少なくとも私は「中村先生の弟子です」と言えることを誇りに思っていたのです。
30代の始め、私は中村先生に初めて呼ばれた<神奈川県産業政策審議会>で、座長である先生に「望月君、あなたの考えを述べてください」と指名された時、どんなに緊張し、また嬉しく思ったことでしょうか。それ以後、様々な委員会や研究会に呼ばれ、私には先生の前で考え、喋ることがどんな教育をも上回る訓練の場だったのです。こうやって育てられた人間は、無論私だけでなく、同僚の星野克美や関満博など数多くいるのです。
野田一夫先生と中村先生が比類なき絶妙なペアシステムで創りあげた多摩大学に私も招かれました。これは一つのベンチャーな作品だと思います。それだけにその作品を磨いて行かなければならない私たちに、ずっしりした重さが残ります。そしてこれは野田先生や中村先生が私たち世代に課す仕事でもありましょう。
3月の半ば、先生がリハビリを受けている伊豆の月ヶ瀬病院を見舞いました。病室に入っていくと先生はすぐに気づかれ、にこにこと例の誰でも楽しくさせてしまう“秀スマイル”で迎えてくれました。リハビリは相当にきつく、70才を過ぎられた先生には骨身に応えるようでした。動かなくなってあまり使わない右手がやせ細っています。学校のこと、委員会のことなどしばらく話して、私は先生があまりお疲れにならないように病室の窓辺に立ちました。外には田園が広がり、明るい春のエネルギーがみなぎっていました。
そのうちに、ベッドに横になられた中村先生が深い大きな溜め息をつかれたのが感じられました。遅咲きの白梅でしょうか、その溜め息にうながされるように白い花びらがはらはらと散って、病棟の横を流れる川面を流れていきました。私はこの偉大な先達の成し遂げてきたようなことを、果たして伝承していくことができるのかふっと考えていました。
ふりかえるとそこにはいつも秀スマイルがありました。「早くお元気になってくださいね」もう病室に入って10回も繰り返した言葉を私はまた言ってしまったのです。
ユートピア通信 №5 「親友、小野貴邦追悼」
ふらりと出かけた散歩の途中、花屋さんの店の片すみでしおれたあじさいの一鉢を買った。
店の小母さんが「今年はもうダメですが、来年また咲きますから」といって定価三千円を千円にまけてくれた。
来年にまた、という期待感、未来感がその一鉢にあった。
つい先頃私は大切な友人の一人を亡くした。小野貴邦である。小野もまた毎年毎年次の年にもう一回り大きく咲くために生きていた。私にはそう思える。
“主婦産業は1兆円産業だ”というフレーズが、次に会った時には10兆円になっていた。そうやって彼は自分のビジネスの夢を際限なく膨張させ、その内実を創出するためにアルミ製のケースを抱えて走り回っていた。それは別に彼が誇大妄想家であったからではない。 何か全く新しい産業社会の到来を小野がイメージしていたからである。彼 と私の共通の師・中村秀一郎先生の「知のビッグバン」を祝う会のメインテーマを「産業創世期神話」と二人して決めた。この言葉・概念を小野は えらく気に入っていたようだ。いたる所で使っていた。産業創世期のための神話づくりを彼は一種使命のようにとらえていたに違いない。
ーおまえは常に思想家たれ、オレはその実践者たらんとすー 私に向かって、彼はいつでもこういっていた。この小野が投げかけた大きな命題に対して、私はただ立ちすくむだけだ。なぜなら実践者の軌跡にのみあらたな思想が見い出されるからである。
今、私の書斎のベランダで、あじさいが活き活きと蘇っている。私がたっぷりと水を与えた結果なのであるが、小野は私たちに、これまでたっぷりと知と愛の水をかけ続けてくれていたのではないか。小野が逝ってしまった現在、生命(いのち)の水を今後は私たちが時代に与える番だ、とこのところ私は考えているのだ。